
――球場の空気は、息を呑む静けさに包まれていた。
9回表、2アウト。マウンドには、ロサンゼルス・ドジャースの山本由伸。スコアボードには、いまだ「H(ヒット)」の数字は刻まれていない。誰もが歴史の瞬間を待っていた。
1球、2球とストライクを奪うたびに、観客席は大きく揺れ、次の瞬間に備えて再び静まり返る。あと一人。あと一球。誰もが祈るように両手を握りしめていた。
その時だった。高めに浮いた直球が、無情にもバットの芯をとらえる。乾いた快音。打球は弧を描き、レフトスタンドへ一直線。沈黙を破ったのは、敵地オリオールズファンのどよめきと、ドジャースファンの悲鳴だった。
ノーヒットノーランまで、あと一人。
その扉は、無慈悲にも閉ざされた。
山本は、打球の行方を見届けると、ほんの一瞬だけ顔を上げ、悔しさを噛みしめるように深呼吸をした。次の瞬間、拍手が巻き起こる。スタンディングオベーション。敵味方を超えた観客が、その投球に心を奪われたのだ。
この日、山本は8回2/3を投げ、被安打1、1失点、10奪三振。結果だけを見れば「快投」だ。しかし内容は、それを超えていた。メジャーの舞台で、完璧に近い支配力を見せつけ、打者を次々と沈黙させた。たった一球を除いて――。
試合は惜しくもサヨナラ負けに終わった。それでも、球場を後にするファンの表情には、落胆ではなく、確信が浮かんでいた。
「彼は必ずやる。次は本当にやってくれる」
野球の神様は、山本にわずかな試練を与えただけだ。だが、その右腕が再びマウンドに立った時、今度こそ歴史が書き換えられるだろう。

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